野菜室の底

にあるような戯れ言

愛が怖い

愛が怖いと言って、みなさん伝わるでしょうか。

愛が怖いというよりも、まっとうに愛されて育った人間が怖くて、その人たちが当たり前のように振りまく愛が怖い。

たまに居るじゃないですか、ああこの人ってまっとうな人生を送ってきたんだな、みたいな、恐ろしいほどまっとうな人が。

きっと両親に愛されて、小中高と当たり前のように友達ができて、スクールカースト上位に君臨して、でも本人はそんなことなんて気づきもせず、ただ、まっとうに愛を得て、愛を与える側になっている人。

わたしはその人たちが怖くてたまりません。

例えば同じ大学の友人、サークルの先輩、高校の同期、大学の教授。ああこの人たちは当たり前に愛されて育ったんだなって感じるたびに怖い。当たり前に愛されて、そうじゃない人間を見た時に、哀れみでも同情でもなく、愛を与えるような、まるで聖人なんじゃないか?というような人を見るだけで怖い。

わたしたちにとっては聖人なんです。人を見て、マウンティングでもなく、軽蔑でもなく、同情でもなく、まったく当たり前のように、まるでそれが常識みたいに、憲法に書かれているでしょう、みたいにして、当たり前のように愛を与える人が怖い。私の眼が曇っているだけかもしれない、もしかしたらその人だって深い深い闇を抱えているかもしれない、家庭で何かしらの不和があって、だとか、中学時代いじめられて、だとか、大学に入って既婚者に騙されて、だとか、わたしのちょっとした「崇高な悩み」なんかしょうもないゴミクズになってしまうような、大変な悩みを抱えているのかもしれない、でも、それでもその人たちは、わたしのつく嘘や他人の戯言に、笑顔でこたえて、「そんなことあったの?すげー!」だの、「俺もそういう友達がいればなー」だの、「お前がそんなに悩んでるなんて知らなかった。ごめんな、頼りないかもしれないけど、あたしでよければ相談に乗るから」だの、わたしでは到底言い切れないような、きらきらした世迷い事を、いえ、まさしく美しくて、これこそが正解だと言いたくなるような、まぶしくて、ただしくて、どうしようもない言葉を、彼らは吐くのです。たとえば今わたしはひどくお酒を呑んで酔っ払っていて、泣きながら、今までに出会った素敵な、素晴らしい、それでいてあまりの曇りのなさにわたしに絶望を与えるような人たちのことを思い出しては、こうしてキーボードを叩いて、そう、泣きながら、まるで被害者みたいに、思ったことを書きなぐっています。わかっていますこんな崇高な、高尚な悩みなんて生きていくにはまったく不必要な、きっとまっとうに生きていく人たちは、もっと即物的な悩みを抱えて(例えば今日買わなければならない野菜が高いだとか、そろそろ布団を干したいのに天気が芳しくないだとか)生きているはずなんです、それをこのわたしは、誰それに嫌われている気がするだの、誰それの言動が気に食わなくてこれはきっとわたしを目の敵にしているからに違いないだの、どうしようもないしょうもないことで悩んで息が苦しくて、死のうなんて考えているんです。わたしはもっと、天気とか野菜の値段に頭を悩ませて生きたいのに、わたしの脳みそはもっと小さくてミクロなことばかりを見つめている。助けてほしいんですよね、誰かに、あなたは間違ってないし、あなたの悩みは至極まっとうでこの世の理だと、でもわたしのことを救えるのはきっとわたしだけなんですよ。家族でも親友でも恋人でもない。わたしだけがわたしのことを「よくがんばったね」って認めてあげられる。それなのに、わたし自身の言葉よりも誰か他人の称賛を欲しがっているのはわたし自身なんですよ。やるせないですね。今夜もお酒がおいしいし、化粧品はかわいいし、香水はいいにおいがする。明日もどうにか生きていけたらいいですね。これはわたしの問題だし、あなたの問題ですよ。